HeartBreakerU  2




沖田と千鶴と薫 




「じゃあ、僕ちょっと出かけてくる。二時間くらいしたら帰るよ」
Tシャツとジーンズのラフな格好をした沖田が、そう言ってキーを持った。
「はい。いってらっしゃい」
千鶴は洗濯を干している手を止めて沖田を見る。
こうやって時々沖田は一人ででかける。家族も親戚も友達もいないこの現代で何をしているのかと、千鶴は聞いたことがある。はぐらかされて正確には教えてもらえないが、多分千鶴を守るための準備や手回しをいろいろとやっているのだろうと、千鶴は思っていた。
沖田が過去にタイムトラベルをして千鶴が『血のマリア』になるのを阻止してくれたこと、そして羅刹の世界を夢見ていた綱道を殺したこと。これらのおかげでもう全ては安全になったのだと千鶴は思っていたのだが、沖田は相変わらず臨戦態勢だった。
何を気にしているのかと千鶴が聞いても、沖田は『まだ確証はないんだよね』と言ってはっきりとは教えてくれない。けれど千鶴が想像するに、沖田の心配にはどうやら失踪した双子の兄、薫が絡んでいるらしいのだ。どう絡むのかはわからないが、とにかく今、沖田は薫を探していて、薫を探す手がかりになる物を綱道コーポレーションで調べているらしい。
時期がくれば教えてくれるだろうし、それまでは沖田にまかせておけばいいと千鶴は思っていた。
二人で暮らして、家事をして、デートをして……今はこの生活が千鶴の傷ついた心をゆっくりと癒してくれている。沖田もそれをわかっているからそっとしておこうとしてくれているのだろう。

「今日の夕ご飯は沖田さんの好きなハンバーグですよ」
玄関で靴を履いていた沖田は、嬉しそうに顔をあげる。
「じゃ、早く帰って来るよ」
『ん』というように顔を突き出されて、千鶴はじりっと後ろへ後ずさった。
「…な、なんですか?」
沖田は片目を開けて、当然のように言う。
「ちゅって。いってらっしゃいの、ほら」
「……いっつもそれ言いますけど、もうそろそろ諦めたらどうでしょうか」
「……いっつもこれ言ってるけど、そろそろ諦めるのは千鶴ちゃんじゃない?」
じりじりと後ろに下がる千鶴を、沖田は腕を伸ばして抱き寄せた。
「ほら、いっつも結局はキスすることになるんだから。最初からちゃんとしとけば頬とかに軽いのですんだのに」
「ま、毎回こんなことする意味がわかんないんです!」
千鶴は逃れようと頬を染めて顔をそむける。
「あ、もしかして千鶴ちゃんは誘ってるのかな? こうやって、無理矢理強引に熱いキスをされるのがお好みとか?」
「ちっちが……!」
千鶴の言葉の途中で、沖田の唇が千鶴の唇をふさいた。
「んん…!」
千鶴の抗議の声を楽しそうに呑みこんで、沖田はさらにキスを深める。千鶴の頬を両手で押さえて、彼女の舌を優しく絡め取り、まるで昨夜の寝室での愛撫のように優しく舌でなでる。
「ん……」
千鶴の声が甘くなると、沖田はゆっくりと自分の体を寄せて、両手で千鶴の背中を撫で肩に優しく振れる。沖田の唇はそのまま顎の方へと移り、千鶴の感じやすい耳を愛撫しうなじを辿る。
「あー……なんかその気になってきちゃったなあ……千鶴ちゃんが煽るから」
「あ、煽ってなんか……」
壁を背にした千鶴を両腕で挟み込んで、沖田は彼女の顔を覗きこむ。うっとりとした潤んだ瞳に上気した頬。最高に煽られてしまうのはしょうがない。
「今から子づくりしようか?」
沖田が甘くそう言うと、千鶴は夢から醒めたようにパッと目を見開いた。
危ない危ない。また沖田に誘惑されるところだった。昼でも夜でも、家でも外出先でも、沖田にキスをされているとすぐにこういう展開になってしまい、一日を無駄にしたことが何度もある。
「ダメです! 今日はお洗濯をしてハンバーグをつくらないと! 沖田さんも早く用事を済ませてきてください!」
真っ赤に上気した顔で『めっ!』と叱っても効果はないかもしれないが、千鶴は下から沖田を睨んだ。
可愛い彼女にあんなことした後にこんな可愛い顔でしかられても少しも怖くはないが、沖田はにやっと笑うと一歩後ろに引いた。
「はーい。じゃあ帰ってきたらね」
「……」
「ね?」
「……もう! とりあえず早く行って来て下さい!」
沖田は、あっはっは! と笑いながら出て行った。

「……もう!」
沖田が出て行ったのを確認し、鍵を閉めてチェーンをかけて(沖田からいつもうるさく言われてるので)、千鶴は洗濯の続きに戻った。
「……赤ちゃん…かあ……」
昨日から何度も沖田に言われている。
千鶴は自分のぺたんこのお腹を見下ろした。
両親の記憶は全くない。前の時間の流れにいた時に綱道が、千鶴の両親は交通事故で死に千鶴と薫は赤ん坊の時に綱道が引き取ったと話していた。
母の笑顔や父の肩車の記憶はないけれど、それを沖田と二人で新しく築くことが出来たらと想像すると、千鶴の胸の奥は小さく震えた。
でも、そんなことをしていいのだろうか?
千鶴は今は『血のマリア』ではなくなったとはいえ、流れが変わっていない前の世界では、数多くの人々を不幸にした魔女だったのだ。
好きな人との子どもを産んで、好きな人と一緒に平凡な毎日を……なんて、そんな幸せを望んでもいいのだろうか?
望んでいけない理由など今はなにもないのもわかっているし、自分の望みだけではなく沖田の望みでもあるのもわかっている。単なる感傷なのかもしれない。新しい幸せに一歩踏み出すのをこわがっているだけなのかも。
千鶴は、何故だか幸せそうに緩んでしまう頬を引き締めて、残りの洗濯物を干した。
「ちょっと早いけど、もうハンバーグの下ごしらえしちゃおっかな……」
千鶴がそう独り言を言った時、玄関のチャイムがなった。
『宅配ですー』
「はい、どうぞ」
何か頼んだかな? と千鶴は首を捻りながら、チェーンを外しドアのカギを開けた。

 

二時間と少しで家に帰ってきた沖田は、まず玄関のドアの鍵がかかっていないのに気が付いた。
「……」
無言で、持っていたカバンの中から銃を取り出す。
千鶴に、家にいるときは必ず鍵とチェーンをかけるように何度もうるさく言っている。そのかいあって、チェーンはたまに忘れていることもあるが、鍵は必ずかけるようになっていた。
沖田はドアを少しだけ開けて、中から何か反応があるかを待つ。中は静かなままだ。
それが意味することを考えて、沖田の表情は真剣なものに変わった。銃の安全装置を外すと、沖田は家の中に入った。

特に荒らされた形跡はない。
洗濯物はきちんと干されているし、ソファにおいてある雑誌は出がけに沖田が置いたままだ。
だがキッチンにはまな板の上に肉と玉ねぎが出しっぱなしになっている。そして千鶴の携帯とサイフも家に置いたままだ。
沖田は家中の部屋と人が隠れられそうな場所の全て確かめて、玄関に行き、千鶴の靴が全てあることを確認した。
そしてリビングに行くとパソコンを立ち上げる。
好きな時にマンションの防犯カメラにアクセスできるように細工がしてある。防犯カメラのデータベースを呼び出し、自分が出かけてから帰るまでのマンションの出入りを調べた。
沖田が出かけて三十分ほどしたあとに、不審なワゴン車がマンション前に停まり、その五分後にこの部屋があるエレベータホールからスーツ姿の体格のいい男が二人降りている。
沖田は防犯カメラの時間を確認して、今度は契約している衛星情報提供サービスを確認した。
「この地球上にいる限り逃げられないよ」
沖田は小さく呟くと、不審なワゴン車のその後の動きを追っていく。
綱道が死んだ今、千鶴をさらうとしたらあいつしかいない。沖田が恐れているのはその男――薫の目的が分からないことだ。取り返しのつかないことを千鶴にされるのだけが怖い。
……例えば変若水を飲まされるとか。
過去に変若水の実験体でありその実験場から逃げ出した薫なら、今はもう綱道コーポレーションには存在しない変若水を持っていたとしてもおかしくない。
沖田の目は冴え冴えと光っていた。
真剣になればなるほど、心は凪のように平らになる。
元いた未来の時代での、近藤や土方、そして数々の死線をくぐってきた中で得た生き残るためのスキルだ。感情を殺し、理性で最適な解をさがす。そして最短でその解を実行に移す。
恐れと焦りが判断を狂わすことが一番まずい。
今、一番に成すべきことは最短で千鶴に追いつくことだ。

 

「ようやくお目覚めみたいだね。敵の中でものうのうと眠っていられるなんて、俺の妹は意外に図太いんだな」
ぼんやりと覚醒に向かっていた千鶴は、いきなり聞こえてきた声にぱちりと目を開いた。
落ち着いた白い天井。そして白い壁。ホテルの部屋のような内装をバックに、男が一人千鶴を覗き込んでいた。

……男の人…だよね?

身体つきや全体の雰囲気は男性なのだが、一瞬戸惑うほど顔の造りが繊細で肌のきめが細かい。男の人というよりは少年の方があっているような線の細さ。そして顔は……どこかで見た顔。パーツは全然違うのに面影というのか雰囲気というのか、それが……
「似てるかい?」
その男性はそう言うと立ち上がり、千鶴のベッドから離れて壁際にある机の方へ歩き出す。
男の動きに合わせて千鶴は部屋を見渡した。そこは目を覚ました時に感じたとおり、どこかのホテルの一室のようだった。広いベッドに豪華な調度品。かなりの高級ホテルだ。部屋にはその男と千鶴だけ。
千鶴は恐る恐るベッドの上に起き上る。
「あなたは……」
男はベッドの向かい側にある机に浅く腰かけると、千鶴を見つめた。
「俺の事、知ってるだろう? 会ったのは物心ついてからは初めてだけど、顔を見てさすがに何か気づくんじゃないの?」
「……」
皮肉っっぽい笑顔を浮かべてそう言う男は、黒いスーツを着ていた。ネクタイは締めていない。
そして男の後ろの壁に、大きな鏡が埋め込んであり、そこに男越しに千鶴の顔が映っている。
千鶴は鏡に映る自分の顔を見て、それから男の顔を見る。
「……薫?」
「そう。……ぼんやり生きてきたにしては自分の兄の名前をちゃんと知っていて偉いね」
刺のある返しに、千鶴は驚いて目をまたたいた。
「……私をさらったのは薫なの? どうして? ここはどこ?」
「ここはホテル。日本のね。お前をさらったのは俺が所属している組織だよ。お前は丸一日ここで眠りこけてて、これから俺の……俺が所属する組織がある国へ行くことになると思う」
「丸一日? そんな……。薫が所属する組織……?」
『国へ行く』ということは日本を出るのだろうか? そんなことになったら沖田は……沖田とはどうなるのか?
そうだ、沖田はどうしているのだろう。
窓の外は明るいが、丸一日眠っていたと薫は言っていた。それなら沖田は当然もう家に帰って千鶴がいないことに気づいている筈。そしてあの沖田の事だ、必ず後を追ってきてくれる。それまでなんとかここで時間をかせがないと。  
しかし千鶴もここがどこだかもわからないのに沖田が探し出すことができるのだろうか? なんとかここの場所を聞き出して、自力で逃げ出すか沖田と連絡をとる必要がある。
千鶴が目まぐるしく考えていると、薫の冷たい声が思考をさえぎった。
「沖田の事考えてるのかな?あいつ、ほんとに邪魔だよね」
「沖田さんのこと、知ってるの?」
薫は頷いた。
「知ってるも何も、会ったこともあるよ。お前をさらうためにいろいろ調べていれば目に入るさ。沖田は……追いかけてくるだろうね。でもここがわかるかな? ……まあ来ても来なくてもどっちでもいいんだけどね。邪魔だからどうせ消さなくちゃいけない。それが早くなるか遅くなるかの違いだけで」
「……!」
千鶴が息をのむと、薫はうっすらと笑って千鶴を見た。その瞳の色は、千鶴と同じにもかかわらずとても冷たい。嘲るような声で薫は言った。
「……お前はいいね。最初は綱道に守られて、それが終わったら次は沖田。いつも誰かに愛されて守られてる」
「……」
「俺が綱道の研究所を抜け出したことは知ってる?」
千鶴はコクン頷いた。時間の流れが変わる前に、綱道がそう言っていた。千鶴はおずおずと聞く。
「……薫はまだ十五歳くらい、だったんだよね? お父さんもお母さんも……友達もいなくて、どうしたの?」
千鶴の問いに、薫は一瞬言葉に詰まったように口をつぐんだ。しかしその表情はすぐに元の薄い笑いに隠される。
「俺のできること、唯一持ってる物を使って生き残ったよ」
「唯一持ってるもの……?」
「俺は実験体として生きてきたからね。脱走するときにサンプルと実験結果はちゃんと持って逃げた」
「……どういうこと?」
変若水の実験体になるのが嫌で逃げ出したのではないのだろうか? 逃げ出した先でもまた同じようなことをしていたのか?
「極東の片田舎の製薬会社がなにかとんでもないものを開発しつつあるという情報を、知っているところは知っていた。ほんの少し情報を流しただけで食いついてきたよ」
「じゃあ……じゃあ薫はまた……」
「そこは自由と人権と民主主義の国でね。『実験体』というよりは『被験者』としての扱いだった。そして俺の羅刹としての頭脳が際立っていることを知ると、『被験者』から『研究者』に格上げしてもらえたよ。羅刹であり研究者であり、変若水のキーパーソンとも血縁である俺は、今じゃあ組織の中ではかなりの予算と権限を与えてもらって自由に動ける地位になった」
「……」
逃げ出した薫は、きっと変若水などとは関係のない世界で平和に暮らしているはずだと千鶴は思っていた。綱道と同じようなことを、綱道から逃げ出した場所でもやられていたのか。しかも自分から望んで。
何故? 思い出すのも嫌な目にあったと思っていたのに。
「……逃げ出した俺が、ずっとしたかったことは何だと思う?」
千鶴は、目を見開いたまま茫然と首を横に振る。
「復讐だよ」
「……復讐……」
「そう。それには無力な子供のままじゃ無理だ。俺は力が欲しかった。権力、知力、金。綱道よりもたくさんね」
「……でも、父様……綱道さんは、もう……」
「もちろんあいつは復讐したいトップだけど、もう死んでるし、復讐したいのは綱道にだけってわけじゃない。そうだな……強いて言えば運命に、かな」
「運命……」
「そう。幸いにも復讐できる頭脳も、頭数も、金も、力も今は手に入れた」
薫の鋭く光る目に見据えられて、千鶴は息を飲んだ。
「私に……私に復讐をしたいの?」
千鶴が青ざめた顔でそう聞くと、薫は面白そうな顔をして千鶴を見てしばらく考えた。
「そうだな……確かにお前が俺と同じ思いを味わうところを見てみたいね。閉鎖された空間に、永遠に続く苦しみ。お前はどんな風になるのかな」
閉ざされた空間に、いつ終わるのかわからない苦しみ……綱道から受けた変若水の人体実験のことだ。
不思議なことに千鶴の心をとらえたのは、自分がそう言う目にあうのではないかと言う恐怖ではなく、薫が実際に綱道からそういう目にあって来たという事実だった。
十五歳まで……
千鶴はその間どうしていたのだろうか?
母がいなくて、綱道も忙しく寂しい思いはしたが、衣食住に不自由したこともなく、大久保のような優しい知り合いもいた。学校にはもちろん友達がいて、授業を受けて、部活をして。
双子の兄が同じ頃に、閉じ込められてそんな思いをしていたことなど知らずにいたのだ。
「薫……」
千鶴の表情を見て、薫は顔をしかめた。
「何。同情とかやめてくれないかな。吐き気がするよ」
「……」
「俺の事を考えるのなら、泣いて怒って『殺してやる』って言ってくれた方が楽しいよ。おきれいな千鶴」
拒絶を受けて、千鶴は赤くなり俯く。
その時。
廊下の向こうの壁の奥から腹に響くような『ドン』という衝撃音が聞こえてきた。
続けて『ドン』『ドン』『ドン』と三回。この音は覚えがある。これは……
「沖田が来たみたいだね」
薫は楽しそうにそう言うと、扉が開くのを待ち構えるようにそちらを見る。

沖田さんが……!

千鶴がベットから起き上がるのと同時に、『バン!』と激しい破裂音がして、入口のドアの鍵部分が落ちた。そして鍵が失くなったドアが、蹴りあげられ勢いよく開く。
薫が銃を構えてベッドの上の千鶴にぴたりと狙いを定めた。

鍵を撃って壊し、ドアを足でけり上げた張本人は、薫の予想通り沖田だった。
沖田は、家にいた時と同じTシャツにジーンズ、上にカーキ色の薄手のパーカーを羽織っている。
両手には黒く底光りする拳銃。
「迎えに来たよ、千鶴ちゃん」
沖田はそう言うと、右手の拳銃を上にあげてグリップからバラバラと空の薬きょうを落とした。そして左手の拳銃で薫に狙いを定めたまま、右の拳銃に新たな弾を装填する。
装填し終えた右手の拳銃で、沖田は廊下に向けて『ドン』とまた一発撃った。きっと薫の仲間への威嚇なのだろう。
「お、沖田さん……」
沖田のまるで気負っていない表情と言葉に、千鶴の張りつめていた糸はふっとゆるんだ。それと同時に何故か涙がにじむ。
「すいません、私……」
「あー、相手の確認をしないでドアを開けたのは後できっちり叱るけど、今はとりあえずこっちだね」
沖田は薫へと視線をやった。薫は薄く笑う。
「よく来たね、沖田。一日と……半分くらいかな。まあまあ早かったんじゃないか? きっとロクに寝ないで追いかけてきたんだろうね」
薫の手にある黒光りしている拳銃は、真っ直ぐに千鶴の胸に照準を合わせている。そして沖田の拳銃は薫の頭を狙っていた。
三すくみの状態で、三人とも動かない。
最初に口を開いたのは沖田だった。
「……千鶴ちゃんを殺していいわけ? この子をさらったのは殺すためだとは思えないけど」
薫は、千鶴とよく似た瞳で沖田をチラリとみる。唇には相変わらず冷たい微笑を浮かべたまま。
「組織の本拠地に連れて行かれたら、いっそここで殺されていた方がよかったと思うようになるよ。それくらいならここで一息に殺してあげた方が親切な気もするけどね。まあ、俺としては組織が欲しがっている当初の目的は果たしたし、その後はもうどうでもいい」
薫はそう言うと、左手で自分のスーツのポケットから小さなアンプルを取り出した。中には赤い液体が入っている。
千鶴はハッとして自分の腕を見た。着ていたブラウスの袖をまくり上げると、そこには注射の跡の小さな血がついていた。
「薫、まさか……!」
「お前がのんびり寝てる間にちゃんと血はいただいたよ。これを組織に渡して俺の血との違いを調べれば、羅刹の実用化はさらに進歩するだろう」
「そんな……!」
「まあでも研究にはかなり時間がかかるよ。だってお前はもう羅刹……『血のマリア』だっけ? ……じゃないんだろう? 『血のマリア』の状態での血が手に入ればよかったんだけどね」
薫が口にした『血のマリア』という言葉に千鶴が息を飲んだ。沖田のオーラもビリッと震える。沖田は、先程までの気楽な様子と変わり、鋭く光る緑の瞳で薫を探るように見つめている。
千鶴が綱道から変若水を飲まされ『血のマリア』になったこと、沖田のタイムトラベルによってその過去を変えたことを知っているのは――前の時間の流れを知っているのは沖田と千鶴だけだと思っていた。
「薫……どうして…、どうして知ってるの?」
どこまで知っているのか、何故知っているのか。この世界では、千鶴はずっと人間のままで綱道は別荘の火事で死に、変若水の研究は全て破棄されたのに。
薫は沖田を顎で指し示す。
「こいつと初めて会った時は、まったく知らなかった」
「沖田さんと……薫が? 会った? そういえば、さっきもそう言って……」
千鶴も沖田を見る。だが、沖田からは薫に会ったことなんて聞いたことがない。
沖田は、薫を見つめたまま肩をすくめる。そして千鶴の質問に答えた。
「こいつは見かけたことがあるけど、君のお兄さんだとは確信がなかった。初めて会ったのは、あそこでだよ、君も夢で見たって言ってたよね? 君の二十歳の誕生日、湖のほとりの別荘。あの時僕は、君が変若水入りのワインを飲むのを阻止することだけを考えていて――」

 

今から一年前の十月。タイムマシンの設定どおり跳べているのなら、多分夜の七時。
未来からタイムトラベルをした沖田は、湖のほとりにある綱道の別荘の裏手に倒れていた。
涼しい東北、更に山の上にあるこの湖のほとりは、夜はかなり冷える。しかし沖田には寒さなど感じる余裕はなかった。
体が動かない。
タイムトラベルの負荷が肉体に影響を与えることは前にも経験していたため知っていた。しかし、沖田が元いた二十年後の未来に戻るよりは半年前の過去にさかのぼる方が負担は軽いと思っていたのだが。
前回のタイムトラベルとそれほど間を置いていないせいなのか、頭痛に加え体中の骨がきしむ様に痛む。腹の奥がズキンズキンと嫌な痛み方をしている。
突然こみ上げてきた生暖かいものを我慢できずに、沖田は吐き出した。
「ゲホッ…! グッ…!!」
枯草の上に吐いたのものは、薄暗い光の中でもわかるほど鮮やかに赤かった。
「……」
沖田は朦朧とした目でそれを見つめる。
沖田の脳裏には、一枚の写真がよぎっていた。
それは未来にいた沖田たちが、羅刹勢力のタイムトラベル研究施設から、タイムマシンと一緒に奪った実験結果の記録。その中には二度のタイムトラベルを経験した実験動物の写真もあった。
写真には真っ赤な血の上に倒れて息絶えている猿が写っていた。実験記録には、二度のタイムトラベル終了後に実験体の猿が血を吐き、そして徐々に弱り最終的には死んでいった経過観察が記録されていた。

沖田は手の甲で、口の端の血を拭う。何とか起き上り、近くの木の幹に背中をもたせかけて曇った夜空を見上げた。
深く深呼吸をして呼吸を整える。今は吐いた血の事を考えている時間はない。
沖田は自分の傍に置いてあったライフルを持った。体力が弱っているせいでずしりと重いが、ライフルを杖のようにして何とか立ち上がる。
そして、沖田は足元に転がっているタイムマシンを見た。
小さいがかなりの重量のあるそれは、こんな山奥では誰かに盗まれる心配もないだろう。目的を達成して体の自由がきくようになってからまたここに取りに戻ればいい。
沖田はライフルを肩にかけると、頭痛と吐き気を無視して丘の中腹から下を見た。
緩やかな林の丘を降りた先に真っ暗な空間が見える。きっと湖だろう。その手前に洋風の家があった。ウッドデッキが前面にあり、レンガの壁に駐車場。そして窓からは明かりがもれていた。
多分あの明かりの中に、綱道と、何も知らない二十歳になったばかりの千鶴が居る。
彼女がワインに入った変若水を飲むのはもうすぐだ。
沖田はつい先ほど、半年前の時間でベッドに置いてきた明け方の暖かな千鶴を思い出した。
安らかに眠っている彼女は健やかそのもので、どこにも傷も欠損もないように見えた。でも彼女の内部では全てが変わってしまっているのだ。
気丈な彼女は態度にはださないから、沖田も気づくのが遅れた。血の発作に昼夜逆転の生態、人間の血に対する異常な反応。
過去にタイムトラベルをする準備を終えて、沖田は最後に彼女の枕元に立ち眠っている彼女を見つめた。
もう二度と会えないかもしれない。会えても沖田のことは忘れてしまっているかもしれない。それになにより、沖田自身が過去で生き延びる確率が極めて低い。
でもやらなくてはいけないのだ。
後悔や恐怖は全くなかった。


3へ続く



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